本田美奈子の結婚(夫)や子供 父親は?晩年の死相が?2024最新

本田美奈子の画像病気

☆この記事はこのような人におすすめです。

・本田美奈子さんの実家の父親と母親について知りたい。

・本田美奈子さんが付き合っていた彼氏や結婚して夫、子供が居たのかを知りたい。

・本田美奈子さんの晩年に死相が出ていたというウワサについて知りたい。

 

2005年11月6日、急性骨髄性白血病で闘病中だった歌手の本田美奈子さんは、38歳の若さでこの世を去りました。

 

急性骨髄性白血病の発症頻度は、10万人当たりおよそ2~3人と言われています。

 

テレビドラマ『西遊記』で三蔵法師役を演じて以来、女優の名声を手に入れた夏目雅子さんも、27歳の時に急性骨髄性白血病のため亡くなっています。

 

また、本田美奈子さんと夏目雅子さんも、肺への合併症を発症したのが直接の死因。

 

そんな2人の命を奪った難病の急性骨髄性白血病は、現代の医学でもはっきりとした原因は分かっていません。

 

急性だけに発症してしまうと、病状の進行が速いため、いきなり症状が出現する場合が多いのだとか。

 

そのため、早期の診断と速やかな治療が必要になるのですが、発症率は加齢とともに高まっています。

 

そこで今回は、本田美奈子さんのアイドル時代から晩年の闘病生活や結婚、子供、家族、彼氏などのプライベートまでを振り返ってみたいと思います。

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本田美奈子の結婚(夫)や子供 父親について

本田美奈子さんの父親と母親はデビュー後に離婚しています。

 

しかし、最期は離婚した父親、母親、妹の家族らに看取られて亡くなったそうです。

 

また、亡くなる前の日には、舞台仲間の岩崎宏美さんがお見舞いに訪れていたのだとか。

 

葬儀は実家のある埼玉県の朝霞市斎場で営まれ、お通夜には沢山の芸能関係者を含む2700人が弔問に訪れていました。

 

中でも、特に仲が良かった南野陽子は堀越時代からの親友で、弔問に訪れた際は悲しみのあまり号泣していたようです。

 

ほかにも芸能界からは、高嶋政宏・シルビア夫婦や長山洋子、夏木マリ、早見優、立花理沙、松本伊代・ヒロミ夫婦などが参列。

 

ただ、この中に彼氏とウワサされた諸星和己がいたのかは、確認できていません。

 

諸星和己の画像

 

しかも本田美奈子さんは生涯独身で結婚してなかったのです。

 

なので、夫もいなければ子供もいないのですが、彼氏としては元・光GENJIの諸星和己と熱愛が報じられたことがありました。

 

そんな本田美奈子さんが眠るお墓の場所は、埼玉県朝霞市の広称寺(こうしょうじ)にあります。

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本田美奈子に死相が出ていた?

本田美奈子さんは幼い頃からの夢である歌手になり、アイドルを卒業した後はミュージカルで活躍。

 

しかも、3オクターブの美声の持ち主で、あの伝説のロックバンド「クィーン」のメンバーからも愛されたといいます。

 

そんな本田美奈子さんが「急性骨髄性白血病」におかされていると判明したとき、すでに骨髄は80%がガンに冒されていたとか。

 

ただ、血液のガンである急性骨髄性白血病にも、M0~M7までの分類があって、形態や染色体異常の有無、LDH値などで治りやすさに違いがあるそうです。

 

俳優の渡辺謙やタレントの吉井怜なんかも急性骨髄性白血病を発症しましたが、治療を施して現在も表舞台で活動を続けているので、かならずしも治らないということはないようです。

 

しかし、本田美奈子さんの場合は、予後不良のM7。

 

まだまだこれからだっただけに、残念でしかありません。

 

あと、気になったのは、晩年になって芸名を「本田美奈子.」にしたことです。

 

名前の最後にドットをつけて改名したのは、病気が発覚する少し前の2004年12月のこと。

 

デビューからずっと「本田美奈子」で活動してきたのに、なぜ晩年になって急に改名したのでしょうか?

 

そのあたりのことを調べてみると、ドットを付けるように助言したのは細木数子だったとか。

 

細木数子といえば、「あんた地獄に落ちるわよ」、「死相が出てる」とかが口ぐせで、何人かの芸能人が助言されて改名しています。

 

そして本田美奈子さんも開運のためにと、助言どおり改名したのですが、その1ヵ月後に急性骨髄性白血病が判明。

 

本田美奈子の晩年の画像

 

細木数子は本田美奈子さんに死相が出ていたため、改名するようにすすめたのかは分かりませんが、もしそうなら何の意味もなかったことになります。

 

よく、誰々に死相が見えたとか言いますが、人の死相なんかほんとうに見えるのか疑問が残ります。

本田美奈子のアイドル時代

本田美奈子さんは、小学校の卒業文集に将来の夢を「歌手になること」と書いていました。

 

そして、中学2年生のときにオーディション番組「スター誕生」に応募します。

 

結果は決戦大会へ進出するも、残念ながら合格のプラカードは上がりませんでした。

 

ところが、この後高校1年生になって本田美奈子さんに運命の出会いが訪れるのです。

 

それは、友人と原宿に遊びに来ていたときのこと。

 

少女隊のメンバーを探していた芸能事務所「ボンド企画」からスカウトされたのです。

 

そして、スカウトがきっかけで芸能界に入った本田美奈子さんは、デビューする前だった高校2年生のとき、「第8回長崎歌謡祭」に本名の工藤美奈子で出場。

 

決勝大会まで進み、グランプリに輝いたのをきっかけに、東芝EMIから「殺意のバカンス」で歌手デビューを果たします。

 

その後、何枚かのシングルをリリースし、その年の新人賞に次々にノミネート。

 

しかし、結局は最優秀新人賞を手にすることはできなかったのです。

 

すると、今度は曲だけでなく、歌手として衣装やイメージにもこだわりたいと、1986年にリリースした「1986年のマリリン」が大ヒット。

 

アイドル全盛の時代に過激なへそ出しルックとダンスで、一躍世間の注目を集めたのです。

 

さらに翌年には「ワンウェイジェネレーション」をリリース。

 

この曲は人気ドラマ「パパはニュースキャスター」の主題歌にもなり、またまた大ヒットとなったのです。

 

このころの本田美奈子さんは、幼い頃からな夢を実現し、スターへの階段を一気に駆け上がっていったのですが、一方で自分がアイドルしてるって感じが嫌だったといいます。

 

あくまでもアーティストを目指して頑張っていた本田美奈子さんは、アイドルではなく、個性的な1人の歌手になりたいと考えていたのです。

本田美奈子のミュージカル時代

アイドル扱いされることが嫌だった本田美奈子さんは、1988年に女性だけのバンド「MINAKO with WILD CATS」を結成。

 

しかし、レコードの売り上げが伸び悩む中で歌番組への出演もだんだんと少なくなっていったのです。

 

パッとしないままの日々が続き、その後バンドは解散。

 

人気絶頂からまさかの転落でソロへと逆戻りとなります。

 

その後は、ソロで歌手活動を続けることになったものの、この先どうすれば良いのかすらわからなくなり、大きなスランプに。

 

そんな本田美奈子さんでしたが、23歳の1991年に転機が訪れます。

 

偶然食事会であった東宝のプロデューサーから、ミュージカルの企画話を聞いたのです。

 

そのミュージカルとはブロードウェイで話題になっていた「ミス・サイゴン」でした。

 

オーディションを受けてみたらどうだと周りにすすめられ、酔った勢いでオーディション参加を決めます。

 

そして、本田美奈子さんは歌唱力を武器に1次選考から8次まであったオーディションを次々に突破。

 

ついには、応募者1万5000人という狭き門をくぐり抜け、見事主人公のキム役を勝ち取ったのです。

 

それからの1年間は仕事をすべてキャンセルし、レッスン漬けの毎日。

 

舞台では途中で大ケガをして3ヶ月間離脱しましたが、見事復帰し、1年半に及んだ千秋楽を無事に迎えます。

 

絶大な評価を勝ち取った本田美奈子さんは、その後「十二夜」、「レ・ミゼラブル」など数々のミュージカルに出演。

 

そしてミュージカルを通して、1人の恩師と出会うことになります。

 

その人物は、「ミス・サイゴン」で訳詞を担当した岩谷時子さん。

 

岩谷さんは歌手・越路吹雪さんや加山雄三などの作詞を手掛けた名作詞家で、本田美奈子さんのために素晴らしいし詩「アメイジンググレイス」を提供してくれたのです。

 

代表曲「アメイジンググレイス」はデビューから15年、歌うことがなによりも好きだった本田美奈子さんが、やっとたどり着いた新境地だったのです。

本田美奈子の晩年

本田美奈子さんは、ミュージカル、クラシックと出会い、ようやく歌う場所を見つけたのです。

 

舞台やレコーディング、コンサートにと歌手活動は順風満帆で、急性骨髄性白血病が発覚するまでの晩年は、2年先まで仕事のスケジュールが埋まっていたそうです。

 

そんな彼女に病気が発覚したのは、微熱が続いていたため、病院で血液検査を受けた2005年1月10日のこと。

 

2005年はデビュー20周年という節目の年だったのと、本来なら1週間後にコンサートを控えていました。

 

しかし、思いもよらぬ事態が待ち受けていたことにより、緊急入院を要することに。

 

そして、入院したその日、抗がん剤の投与が始まれば副作用で髪は抜けるので、担当のヘアメイクに頼んで伸ばしていた髪を切ったのです。

 

晩年の本田美奈子さんは、入院しても落ち込まず、常に前を向いて治療に専念していたといいます。

 

そんな本田美奈子さんが入院した病院の病室は、外と隔離されたガラスばりの無菌室。

 

診察も治療もすべて、無菌室に隔離された状態で行わたといいます。

 

それからしばらく経った5月12日、病気と闘うために臍帯血移植に踏み切ります。

 

移植後、適合しなければ拒絶反応が起きる可能性もありましたが、心配していた拒否反応もなく、誕生日前日の7月30日に一時退院。

 

ところが、1ヶ月で再発したため、9月7日に再入院することになります。

 

その状況は予想以上に深刻なもので、実は治療の過程で本田美奈子さんの白血病は200万人に1人という治療の難しいケースであることが判明。

 

すでに抗がん剤も効きにくくなっていて、完治への道は骨髄移植しか残されていなかったのです。

 

しかし骨髄移植をするために必要な骨髄は母親の美枝子さん、妹の律子さん共に不適合であることが判明。

 

骨髄バンクには適合者がいたものの、順番待ちの患者さんが先にいたため、新たに適合するドナーが現れなければ不可能な状態での再発だったのです。

 

そんな中でも本田美奈子さんは、復帰への情熱を失っていませんでした。

 

しかし、その夢がかなうことはなく、2005年11月6日、午前4時38分、歌手・本田美奈子さん永眠。

 

享年38歳というあまりにも早すぎる旅立ちだったのです。

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