☆この記事はこのような人におすすめです。
・アイドルだった岡田有希子さんについて知りたい。
・遺書の内容について知りたい。
・岡田有希子さんの母親の死因について知りたい。
・姉と父親の現在を知りたい。
1986年4月8日、突如、アイドルだった岡田有希子さんは自ら命を絶ちました。(享年18)
あの悲劇から30年以上経ちますが、伝説のアイドル・岡田有希子さんとはどんな人物だったのでしょうか?
そこで今回は、亡くなる直前まで岡田有希子さんと一緒にいた事務所の元専務・福田時雄氏の話しを元に、遺書の内容や亡くなった原因。
相手の峰岸徹氏とのウワサや、母親の死因などについて調査してみました。
岡田有希子の遺書の内容
岡田有希子さんが亡くなった後、遺書のような日記風のノートが発見されたそうです。
その遺書の内容は、峰岸徹さんの名前はもちろんのこと、岡田有希子さんが峰岸さんを思い、そのことがうれしくて、喜ぶさまがつづられていたとか。
一方で、その恋は成就することがないと判断し、真綿でクビを絞められるような苦しみが実直につづられていたといいます。
「サンミュージック」の創設者である故・相澤社長の話では、当時の岡田有希子さんは仕事や恋に悩み鬱病を患っていたとか。
遺書の内容には、峰岸徹さんにフラれたことや、「もう一度会いたかった……勝手なことをしてごめんなさい」と書かれていたそうです。
そんな岡田有希子さんは、亡くなる日の早朝、自宅で1度目の自〇を図っています。
結果的に1度目は未遂に終わったものの、元専務・福田時雄氏が危険を察して、岡田有希子さんを事務所に連れて行ったのです。
なお、当日は、岡田有希子さんを6階の社長室に連れていき、福田氏と付き人の女性が寄り添っていたのだとか。
福田氏によると、しばらく付き添っていたらしいのですが、相澤社長から電話が入ったため、隣の部屋に移動。
その隙に岡田有希子さんは、もう1人の女性に「トイレに行く」とウソをついて部屋から出て行ってしまったとか。
福田氏が電話を終えて部屋に戻ると、岡田有希子さんがいなかったため探し回ると、屋上に病院から履いて帰ったスリッパがきれいに並べられていたそうです。
一瞬目を離した隙に岡田有希子さんは命を絶ってしまったわけですが、かんじんの自〇の原因について福田氏は、少し苦しげに当時を振り返っています。
1度目は「関係を噂された男性への一途な思いが遂げられない葛藤に悩んだ末の行動」。
やはり、自〇の原因は、岡田有希子さんが峰岸徹さんに恋焦がれ、叶わぬ愛を持ち続けて行為に及んだということだろうか?
しかし、福田氏は2時間後の自〇は、「1度目の未遂が周りに迷惑をかけた過ちへの自責の念ではないか?」と語っているのです。
要するに「あくまで、男女関係が死の真相だった」ということを否定したのです。
岡田有希子の母の死因と姉 父の現在
岡田有希子さんは、中学2年のときにも未遂を図ったことがあったそうです。
その原因ですが、母親の孝子さんの著書によると、岡田有希子さんは幼少期から成績が良く、先生からも可愛がってもらっていたとか。
ただ、そのことで同級生たちとうまくいかなかったことがあったようです。
また、ちょうどその当時、ニコンのフレッシュギャルに応募することを母親や担任の先生に反対されていたことが重なったりして、気持ちが不安定になっていたことも原因の一つだったとか。
結局、その後の岡田有希子さんは、ニコンのフレッシュギャルに応募して、準グランプリを獲得。
中学3年のときには、大阪城で開催された「ニコン 中・高生のためのカメラ教室」の写真モデルになったのです。
そんな岡田有希子さんには、父親と母親の両親と姉が1人います。
しかし、両親は彼女の死後、20歳の誕生日を待って離婚。
離婚した際、姉は父親の方についていったため、母親は1人きりになってしまったそうです。
その後、母親は精神疾患を患って、長期にわたり精神病院に入院していたとか。
そして、その母親も現在は亡くなっているそうです。
一説には、母親の死因は自ら命を絶ったとされていますが、あくまでウワサなので真相は不明。
また、離婚した父親は、姉夫婦とその子供の4人で暮らしていて、現在も健在ということです。
岡田有希子と峰岸徹が共演したドラマ
岡田有希子さんは、トップアイドルとして絶頂期を迎えた1986年4月8日、所属する「サンミュージック」の屋上から身を投げ、命を絶ちました。
岡田有希子さんの訃報は、連日ワイドショーなどで報道されると、これに端を発した若者ファンの後追いが続出。
そのため、大きな社会問題に発展したのです。
結局、岡田有希子さんが自ら命を絶った原因は何だったのか?
当時は、自ら命を絶った真相について、様々な憶測が飛び交うことになります。
まず、その1つが1985年に放送された遺作ドラマ『禁じられたマリコ』で共演した俳優の峰岸徹さん(当時42)が原因とされた説。
相手の峰岸徹さんとは、このドラマの共演で仲が深まり、当時は男女関係のウワサがささやかれていたのです。
(相手の峰岸徹氏)
岡田有希子さんが亡くなった当日の記事にも、「遺書に峰岸徹さんの名前があった」と報道。
男女関係のもつれが、死の原因とされたことに世間が騒然となったのです。
しかし、相手の峰岸徹さんは、岡田有希子さんが亡くなった当日の夜に緊急会見を開き、恋愛関係を否定。
あくまでも、「兄のような存在で恋愛感情は無かった」とコメントしたのです。
また、男女関係のウワサに峰岸徹さんの名前が挙がる一方で、神田正輝とも付き合っていたという話もあります。
岡田有希子さんは、亡くなったとき、妊娠3ヶ月だったというウワサが浮上。
その相手が神田正輝という説が有力ですが、ほんとうに妊娠していたかどうかは謎のまま。
また、一説によると、好きだった神田正輝が松田聖子と結婚したことにショックを受けたのが自〇の原因とされています。
さらには岡田有希子さんが神田正輝の子を身ごもったため、代わりに峰岸徹さんが責任を負うはめになったなど、あらぬウワサまで立つ始末。
結局、峰岸徹さんも亡くなっている今となっては、真相は闇の中というわけです。
岡田有希子とは
最後に岡田有希子さんがどんな人物だったのかについて、紹介したいと思います。
岡田有希子さんのプロフィールですが、本名は佐藤佳代さんと言って、1967年8月22日、愛知県一宮市に誕生。
愛称はユッコ。
アイドルに憧れていた彼女は、中学2年のときにオーディション番組「スター誕生!」に応募し、翌年、中学3年生のときに名古屋地区予選に出場しています。
ただ、予選を突破したものの、本戦出場は厳しくなったのです。
理由は、両親が芸能界入りを反対したため。
それでもアイドルになるのを諦め切れなかった岡田有希子さんは、母親とある約束をします。
それは、「学年で1位」、「模擬試験で全国5位以内」、あと、地元の難関校「名古屋市立向陽高校」に入学すること。
この条件をクリアすれば、本戦出場を承諾してもらえることになったのです。
岡田有希子さんは、その日からおよそ半年間、猛勉強。
そして、見事すべての条件をクリアし、本戦出場を果たしたのです。
本戦では、憧れの松田聖子と同じサンミュージックにスカウトされ、晴れて芸能界入りを果たし、堀越学園芸能コースへ編入。
1984年4月、16歳でデビューすると、清楚な雰囲気と愛らしい笑顔がウケ、「ポスト松田聖子」と称されたのです。
晴れて芸能界デビューした岡田有希子さんは、歌謡大賞新人賞、レコード大賞新人賞など、1984年度の新人賞を総ナメするなどして活躍。
最後のシングルとなった「くちびるNetwork」は、憧れだった事務所の先輩・松田聖子が作詞し、大ヒットを記録したのです。
この曲で初のオリコン1位を獲得。
名実共にトップアイドルへ上り詰めた岡田有希子さんでしたが、この曲の発売から3ヵ月後の1986年4月8日、突如、自ら命を絶ってしまったのです。
なぜ彼女は命を絶たなければならなかったのか?
その理由については、冒頭で書いているように事務所の元専務・福田時雄氏が一部始終告白していたというわけです。