中村ユキ(ゆき) 母親の死因は?漫画本が現在話題に!

中村ユキの画像テレビ

11月30日放送のザ!世界仰天ニュースは、「脳の不思議スペシャル」と題して、漫画家・中村ユキ(ゆき)氏の母親が患った病気「統合失調症」にスポットが当てられます。

 

中村ユキ(ゆき)氏の母親は、自分が4歳のときに統合失調症を発症したといい、それ以降、二人三脚での闘病、介護する生活が続いたといいます。

 

その当時の様子を、漫画家でもある中村ユキ(ゆき)氏は、自らの体験に基づき、著書「わが家の母はビョーキです」を描いています。

 

この漫画本は、統合失調症にかかった母親を持つ、中村ユキ(ゆき)氏の実話を描いたコミックエッセイ。

 

「もっと早く病気に気づいて治療をしていればよかった」と、後悔する中村ユキ(ゆき)氏の「誰もが早期治療を受けるためにたくさんの人にトーシツを知ってほしい」と願う気持ちに胸が打たれます。

 

そんな中村ユキ(ゆき)氏の現在はというと、母親を3年前に亡くし、普通の暮らしを取り戻しているといいます。

 

母親の死因はお菓子を喉に詰まらせ心肺停止になったことが原因で、今回の仰天ニュースでは、中村ユキ(ゆき)氏が幼少期から見続けてきた母の衝撃の姿を再現VTRにして放送。

 

「統合失調症」とはどういう病気なのかについて迫っていくようです。

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中村ユキ(ゆき)が統合失調症の母を介護する漫画本が話題に

中村ユキ(ゆき)氏の著書である漫画「わが家の母はビョーキです」は、とりあえず、多くの人に読んでほしい本です。

 

そもそも、統合失調症とはどのような病気なのか。

 

以下のように説明されています。

 

脳に機能的な障害が発生したため、思考や行動、感情を一つの目的に沿ってまとめていく能力、つまり「統合」する能力が長期間にわたって低下。

幻覚や被害妄想、意欲や関心が乏しくなり、人との接触を極端に嫌うなどの症状を発症し、生活能力が失われてしまう病。

早期発見し、正しい投薬や治療を行えば日常生活を普通に送ることが可能。

発症原因ははっきりしていないが、多くの要因が絡み合い、その人の「ストレス耐性」を越えたときに発症するのではないかといわれている。

初期症状はうつ病の症状にも似ており、誤診を招くことも。

現在、100人に1人の割合でかかり、患者数は75万人を超えているにもかかわらず、症状や治療法などが知られていない病気の一つ。

 

まず、母親に起こった最初の異変は、幻聴だったといいます。

 

『隣人が自分の悪口を言っている』と言うことから始まったのだそうです。

 

しかし、そんな声は聞こえないことから、最初は「何を言っているんだろう?」ぐらいでほっておいたのだとか。

 

それでも、次第にエスカレートしていき、「近所の家に土足のまま入ったり」とか、「ある日突然裸足になって、目をつぶって、『命令が聞こえて裸足で歩けと言われる』」という幻聴が聞こえたり、異様な光景が母親を襲ったのだそうです。

 

さすがにこれはちょっとおかしいということで、母親を精神科病院に連れて行くと、「統合失調症」と診断されて入院。

 

その後、しばらく入退院を繰り返すのですが、中村ユキ(ゆき)氏が21歳のときに母親の様子が急変。

 

薬を飲ませても効果はなく、「刃物を持って暴れる」、「洗剤を飲もうとする」、「タバコを食べる」など、手に負えない状況が続いたといいます。

 

結局、中村ユキ(ゆき)氏は、母親を8ヶ月間措置入院させ、その後は2年3ヶ月の医療保護入院に切り替えるなどして、様子を伺うことに。

 

退院後、母親にそれほど大した異変はみられなくなったらしいのですが、やはり薬と通院は必要だったそうです。

 

そして、そうこうしているうちに中村ユキ(ゆき)氏は、介護福祉士の旦那と結婚します。

 

なお、結婚後は、夫婦2人と母親の3人で生活を開始。

 

中村ユキ(ゆき)氏は、約30年にわたる統合失調症の母親との悲喜こもごもの生活を、明るくユーモアたっぷりに描いたコミックエッセイ「わが家の母はビョーキです」を2008年11月に出版します。

 

その後は、統合失調症再発予防の取り組みについて描いた漫画本「わが家の母はビョーキです2家族の絆編」を2010年5月に、「マンガでわかる!統合失調症〔家族の対応編〕」を2016年10月31日に出版したのでした。

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中村ユキ(ゆき)の母親の死因と現在

中村ユキ(ゆき)氏の母親の現在はというと、残念なことに2013年9月8日に亡くなっているそうです。

 

死因は、以下にも記載されていますが、お菓子を喉に詰まらせ、心肺停止になったことが原因だったとか。

 

中村ユキ(ゆき)氏と旦那のブログ「ゆきたきHP」によると、2012年の暮れ、母親は在宅生活中に自害行為をして入院。

 

そして、当時のことをこのようにつづっています。

大きなケガを負いながらも、幸いなことに脳や脊髄・臓器は損傷を免れましたが、しかし右目の視力を失い、四肢の大幅な不自由さが残りました。

「こころの障がい」と、さらに「からだの障がい」を負ったお母ちゃんの「回復」。

その道程は、これまでにない、迷い悩む手探りな毎日でした。

しかし、主治医の先生や看護士さん、相談員さん、地域活動支援センターの担当さん・みなさん、そしてお母ちゃんの友人知人のみなさん、ほか書ききれないほ ど多くの方々が手を差し伸べてくれたことで、どこか後ろ向きで頑なになっていたお母ちゃんの気持ちが、少しずつ前を向き始めました。

ユキタキも、退院して また一緒に暮らそう、そのためにここまでリハビリを頑張ってみて、と伝え、お母ちゃんも、取り組もうとしてくれるようになりました。

トイレや洗顔など、身の周りのことがある程度一人で行えるようになり、退院に向け外泊という形で、一度家に帰りました。

床座の生活は困難となったため、初 めてベッドとテーブルセットを購入。

ずっとコタツでごはんだった中村家、テーブルもいいね~と笑いながら、退院後の活動場所や通院など新たな生活につい て語り合いました。

そして、9月8日を退院日に設定。

退院後すぐ地域の支援に繋げられるよう、多くの方々が動いてくださいました。

お母ちゃんも、具体的な日にちが決まったこ とで、より前向きな気持ちになり、「はやく家に帰りたい。鳥と遊びたい」と、久しぶりに引っ越し前の頃の元気な声で、表情を輝かせて。

9月8日に向け、手前味噌ですが、着々と順調に、再スタートの環境は整いつつありました。

9月7日15時頃、病院から電話がありました。

お母ちゃんが、部屋で、売店で買ってきたお菓子を喉に詰まらせ心肺停止、救急搬送されたとの連絡でした。

スタッフの尽力で心臓は動き始めましたが、自発呼吸は行えず。

数日様子を見たうえで、復調が望めるのか、脳死に至っているのかの判断をしましょう、覚悟はしておいてください、と先生。

ひとは「その時」あちらに行くのか、戻って来るのか、自分で選べるんだよ、と聞かされたことがあります。

「帰ってきてほしい。また一緒に暮らしたい。で も、お母ちゃんがいちばん楽なようにしてね」。

声をかけたそのとき、偶然でしょうが、残された左目から、ひとすじ涙がこぼれました。

人工呼吸器は付けているけれど、血圧・脈拍・酸素濃度も平常値。

きっと大丈夫、と声を掛けあいながら、着替えを運び、一度自宅に戻りました。

深夜2時過ぎ。

血圧が下がり始めたとの連絡。

タクシーの中で、一時的なものだ、すぐ復調するよと自分たちに言い聞かせながら、どこかで覚悟もしていた。

3時過ぎに到着した時は、血圧の上が35ほど。酸素濃度は70%を切っていました。

涙で声をかけ続け、4時2分、二人が見守る中、お母ちゃんは穏やかな顔で冥府に旅立ちました。

娘夫婦は最大の親不孝をせずにすんで……

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