片桐機長(羽田沖墜落事故)の現在!副操縦士の名前と生存者は?(2024最新)

墜落した日本航空350便の画像社会

1982年2月9日午前8時44分、福岡発東京行きの日本航空350便dc8型機が滑走路手前の海に墜落した「羽田沖墜落事故」。

 

この事故は、機長が正常な判断能力を失っていたことが原因と報道されました。

 

当日の日本航空350便の操縦桿(そうじゅうかん)を握っていた機長の名前は、片桐清二氏(当時・35)。

 

副操縦士は石川幸史氏(当時・33)で、片桐機長は病気によって判断力を失っていて必要以上に速度を下げ、逆噴射までしようとしたのです。

 

そのとき、石川副操縦士と航空機関士は「機長(キャプテン)!やめてください!」と言って、どうにか墜落を免れようと懸命に努力したのですが間に合いませんでした。

 

結果、24人が亡くなり、149人が重軽傷を負ったのです。

 

そんな今回は、羽田沖墜落事故に関することと、片桐機長の現在を調査してみました。

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片桐機長の現在と副操縦士のその後

日本航空350便dc8型機の副操縦士の名前は石川幸史氏です。

 

石川副操縦士は、中央大学経済学部卒業後、日本航空に入社。

 

入社後は航空機関士として経験を積み、10年後に副操縦士になっています。

 

また、羽田沖墜落事故があったその後も勤務をこなし、日本アジア航空でようやく機長に就任したということです。

 

一方、問題の片桐機長は大分県別府市出身。

 

実家は、昭和の初めから商店街で時計屋を営んでいたといいます。

 

店舗以外に高級住宅街に別宅があったという片桐機長は、大分県立別府鶴見丘高校から岡山大学理学部数学科に入学。

 

しかし、2年で中退して、航空大学校に再入学しているのです。

 

なお、片桐機長の結婚はパイロットになってからで、子供は娘がいるそうです。

 

性格は無口で、感情の起伏をまったく見せないのだとか。

 

趣味は釣りで、酒や煙草、ギャンブルなどもやらない。

 

ですが、日本アジア航空へ出向し、定期運送用操縦士の学科試験に落ちたあたりから異常が見え始めたといいます。

 

そして墜落事故を起こした後、統合失調症と診断され、松沢病院に入院。

 

その数年後、日本航空を解雇されています。

 

片桐機長の現在は75歳になっていて、自宅がある神奈川の葉山で生活しているようです。

 

それに、もともと資産家だったので、車の免許を再取得し、悠々自適な生活を送っているのだとか。

 

しかしその一方で、嫁と離婚し、現在、姉が面倒を見ているという情報もあるようです。

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羽田沖墜落事故の原因

乗客乗員あわせて174人が乗った日本航空350便dc8型機の「羽田沖墜落事故」は、24人の犠牲者を出しました。

 

死者の多くは、1番機で東京に向かっていた働き盛りのビジネスマンで、死因は身動きができず溺死した人が多かったとか。

 

また、この墜落事故で犠牲になった人の慰霊碑は、ソラムナード羽田緑地建立されています。

 

そして、墜落事故の原因ですが、当初は機体の老朽化などが考えられましたが、実際は片桐機長が突如、逆噴射を行いながら機首を下に向け、そのまま海へ突入。

 

当然、この片桐機長の操縦に疑問が集まったのです。

 

(片桐機長の画像)
片桐機長の画像

 

ボイスレコーダーには、最後の部分に「機長(キャプテン)!やめてください!」と操縦桿を引き戻そうとして叫んだ石川副操縦士の声。

 

墜落後に片桐機長が「やっちゃった」と、つぶやく声が記録されていたのです。

 

片桐機長は1980年11月頃より「心身症」などを理由に短期休養を命じられていました。

 

その後、日本航空の乗員健康管理室の医師により、機長として乗務することは支障のない旨の判断があったので、国内線機長として復帰していたのです。

 

ところが、片桐機長は「羽田沖墜落事故」の2年ほど前から、異常な行動を取っていたことが分かり、鑑定の結果、極度の精神分裂病と診断。

 

それに事故前日にも、羽田発福岡空港行きJL377便に乗務していたのですが、その際も異常な操縦がおこなわれたため、乗客からのクレームがあったそうです。

 

事故当日も、あいさつ等のアナウンスをしなかった片桐機長は、墜落させた後、「この操作の直前に「去ね(いね)、去ね。」という山彦のような声が聞こえ、その後は墜落直後まで気を失った」と語ったとか。

 

そんな片桐機長は「羽田沖墜落事故」で一時は逮捕されたものの、精神鑑定の結果、刑事責任は問えなくなったのです。

最後の生存者と日本航空の隠ぺい

羽田沖墜落事故は、一般の市民の救助活動もあって、生存者はすぐに空港周辺や都内の20カ所の病院に収容されました。

 

最後の生存者となったのは、12列目の座席に座っていた女性でしたが、救出しようにも天井が体にくいこんで身動きできず。

 

そう簡単には助け出せない状態が3時間も続いたそうです。

 

そして、ついに血圧低下で女性の容態が変わり始めると、救助にあたった医師が、座席の椅子をくみ上げているボルトを外すことを考案。

 

取り外すのは左側の肘掛部分で、わずかな隙間から女性を救い出す行動に出たのです。

 

そうしてようやく無事に救い出された最後の生存者は、病院に搬送され、何とか一命を取りとめたのでした。

 

一方、飛行機を墜落させた片桐機長は、事故発生後、行方不明に。

 

そのため、機長の生死に関する情報が5時間にわたり交錯します。

 

ところが、この報道は日本航空による隠ぺい工作だったのだとか。

 

実際はというと、片桐機長は、墜落した飛行機に負傷者が残っているにもかかわらず、乗客や客室乗務員よりも早く救命ボートに乗って現場を去っていたのです。

 

その後、羽田東急ホテルで、日本航空が手配した東京慈恵会医科大学附属病院の医師の診察を受けた後、慈恵医大病院に入院。

 

片桐機長が入院したのは、小児科病棟401号室で、後に特別病棟428号室に移ったのです。

 

日本航空側は、この不可解な行動を知りながら、「機長死亡説」を故意に流し、片桐機長と石川副操縦士から事情を聴取。

 

事故原因の事実を隠ぺいし、「機長隠し」と騒がれたのです。

 

なお、羽田沖墜落事故の犠牲者の遺族には、ホフマン方式により、日本航空から補償額が支払われています。

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