宮崎勤の母親や家族(父親 妹)のその後は?被害者は5人?2024最新

宮崎勤元死刑囚の画像事件

☆この記事はこのような人におすすめです。

・連続幼女誘拐事件の犯人、宮崎勤の家族のその後について知りたい。

・宮崎勤の冤罪説について知りたい。

・被害者の人数を知りたい。

 

1988年~1989年に東京と埼玉で相次いで起きた「連続幼女誘拐事件」に関して、まことしやかに囁かれているのが歌手の中森明菜の予言です。

 

これは、犯人の宮崎勤元死刑囚がまだ逮捕される前の話で、中森明菜が「ミヤザキツトム」の名前をテレビで発言。

 

それからおよそ2か月後、警察が「連続幼女誘拐事件」の犯人の名前を「宮崎勤」と発表して話題になったのです。

 

また、宮崎勤元死刑囚は、4人の幼い女の子を誘拐して命を奪うなど、残虐非道な行動をとったこともあり、父親や妹といった家族はこの事件を機に、崩壊の末路をたどっています。

 

裁判で焦点になったのは、宮崎勤元死刑囚に刑事責任能力があるのか、それともないのか。

 

そのため、初公判から一審判決まで、およそ7年もかかったのです。

 

そこで今回は、宮崎勤元死刑囚にまつわる冤罪説や、被害者は4人なのに5人いた説。

 

宮崎勤元死刑囚の母親や父親、妹といった家族のその後についてまとめてみました。

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宮崎勤の母親や家族(父親 妹)のその後

宮崎勤が最初に犯した犯行は、26歳になった翌日の1988年8月22日。

 

埼玉県入間市で4歳の幼稚園児に「涼しいところに行かないかい?」と声をかけ、車で連れ去り。

 

そして、翌年の2月、幼児の遺骨を入れた段ボール箱を自宅前に置いたのです。

 

このとき、宮崎勤元死刑囚は、「所沢市 今田勇子」の偽名で、朝日新聞東京本社に犯行声明文を送りつけています。

 

犯行声明と書かれた手紙には、被害者の顔写真を添付。

 

当初警察は、差出人が「今田勇子」という女の名前であることや、文章が定規で書いたような文字だったため、なかなか犯人像を絞り切れなかったのです。

 

その後、2人目の被害者が出たのが、1988年10月3日。

 

埼玉県飯能市内の小学1年生に「道が分からなくなったので教えてくれるかい?」と声をかけ、車で連れ去り。

 

3人目の被害者が出たのが、1988年12月9日。

 

今度は、埼玉県川越市の4歳の幼稚園児に「暖かいところに寄って行かない?」と声をかけて連れ去り。

 

4人目は1989年6月6日、東京江東区の5歳の保育園児に「写真を撮ってあげるよ!?」と声をかけ、連れ去ったのです。

 

そして、1989年7月23日、東京八王子市で6歳の女の子にいたずらをした男が、父親に取り押さえられる事件が発生。

 

この男こそが、宮崎勤元死刑囚だったのです。

 

こうして逮捕された宮崎勤元死刑囚は、取り調べで「連続幼女誘拐事件」の犯人であることを自供。

 

全面的に犯行を認め、捜査員たちが自宅を捜索すると、目にしたのは、天井まで積み重ねられたアニメとビデオテープ、漫画だったのです。

 

恐ろしい数のビデオテープの内容は、SFやウルトラマンシリーズ、仮面ライダーシリーズなど「オタク」気質の物。

 

「連続幼女誘拐事件」の犯人がこういうオタク気質だったため、宮崎勤元死刑囚が原因となって「オタク」が世間から偏見の目で見られたのでした。

 

しかし、そんなことはまだ全然ましで、宮崎勤元死刑囚は、事件に関係のない人の人生までを狂わせたのです。

 

宮崎勤元死刑囚のせいで、被害をこうむった家族や親せき。

 

宮崎一族の末路をまとめると、まず、宮崎勤元死刑囚の実家は、東京都あきるの市の五日市というところにありました。

 

家族は父親と母親、2人の妹。

 

父親は当時、地域限定のローカル新聞社を経営し、生まれつき左手が不自由だった勤元死刑囚も仕事を手伝っていたのです。

 

事件後、妹2人のうち、上の長女は職場の男性と結婚することになっていましたが、その後は自ら婚約を破棄し、職場を自主退職。

 

下の妹は看護学校に行っていたのですが、学校を自主退学しています。

 

また、宮崎勤元死刑囚の親戚関係ですが、父親の弟2人も仕事を退職。

 

上の弟は仕事を退職した後、持っていた会社を妻の名義に変更。

 

下の弟には娘が2人いたのですが、宮崎性を名乗る影響を考えて妻と離婚し、娘2人を引き取らせたのです。

 

一方、宮崎勤元死刑囚の母親にも影響が。

 

母親の兄には、警察官と高校の教諭をしていた2人の息子がいたのですが、その後は2人とも勤め先を辞めているのです。

 

そして、インタビューに答えていた宮崎勤元死刑囚の父親はというと、土地など持っている財産を処分して被害者に謝罪。

 

その土地は820万で売れ、父親は4人の被害者遺族にそれぞれ200万円ずつ送ったのです。

 

これで父親は、自分の出来ることが終わったということもあり、息子の判決が出る前、100メートルある高さの神代橋から身を投げ、自害。

 

日本中を震撼させた事件の影響は、宮崎勤元死刑囚の父親だけではなく、家族の末路にまで及んだのです。

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宮崎勤の冤罪説

宮崎勤元死刑囚の冤罪説は、いろんなところで語られています。

 

理由は様々ですが、その中でも特に証拠について疑問を呈しているのです。

 

当時、犯行に使われた車は、宮崎元死刑囚が乗っていた日産ラングレー。

 

裁判でも宮崎勤元死刑囚の供述調書には、愛車ラングレーの車内及び、自宅の部屋で犯行が行われたことになっています。

 

しかし、宮崎勤元死刑囚の車や、自宅から被害者の血痕や毛髪は全く発見されていないのです。

 

普通なら何らかの証拠は必ず残るはずですが、その証拠が見つかっていません。

 

宮崎勤元死刑囚の裁判において、「決定的な物証」と呼べるものは皆無だったのです。

 

また、冤罪説が語られているのは、目撃された車が、「宮崎元死刑囚のラングレーではなかった」との証言があるからだとか。

 

被害者の体部を隠したとされる正丸峠で、脱輪した車を発見した元中古車販売業者は、脱輪を手伝った際の車は「ラングレーではなく、トヨタの2ボックスカー」と断言。

 

もし、元中古車販売業者車の証言に偽りがなければ、トヨタの2ボックスカーは、事件と全然関係なかったことになります。

 

一方、宮崎勤元死刑囚が運転していた可能性も。

 

その場合、宮崎勤元死刑囚は、誰の車を運転していたのか?という謎が残るのです。

宮崎勤事件の被害者は4人ではなく5人?

宮崎勤元死刑囚は、結果4人の幼い女の子の命を奪い、死刑執行されましたが、実は被害者は5人だった説が浮上しています。

 

最初は、1988年8月22日に犯行を犯していますが、その11か月前の9月15日、群馬県尾島町(現・太田市)亀岡で、小学校2年生の女児が行方不明になる事件が発生。

 

翌年の1988年11月27日、自宅からおよそ2キロ離れた尾島町前小屋の利根川河川敷に女児が発見されるも、体の一部分が見つかっていないのです。

 

実は、この事件も、「宮崎勤元死刑囚の犯行ではないか?」という見方があったのです。

 

宮崎勤元死刑囚は最初の犯行で、被害者の遺族宅に遺骨の入った段ボール箱を置き、その後、犯行声明文を朝日新聞東京本社宛てに送りつけていました。

 

その手紙の内容に、群馬県の女児誘拐事件に触れている箇所があったのだとか。

 

宮崎勤元死刑囚が逮捕された後に、『宮崎が5人目も「白状」』との記事を掲載した女性週刊誌もあったほど。

 

ところが、警察は宮崎勤元死刑囚の事件と、群馬県の女児誘拐事件との関連を認めなかったのです。

宮崎勤事件で中森明菜が犯人の名前を予言していた?

宮崎勤元死刑囚は、1989年7月23日、東京八王子市で6歳の女の子にいたずらをして逮捕。

 

このことがきっかけとなり、「連続幼女誘拐事件」の犯人として、再逮捕されたのです。

 

そして、8月11日に世間はこの事件の犯人を知ることになるわけです。

 

また、その約2か月前に歌手の中森明菜が、当時放送されていた「ねるとん紅鯨団」というテレビ番組にゲストで出演していました。

 

この日は、色々なトラブルが重なって放送が中断するなど、放送事故が連発。

 

中森明菜の画像

 

フジテレビは、この放送事故を受けて後日、番組を再放送したのですが、トークのシーンで中森明菜は、「理想のタイプを芸能人で例えたら?」の問いに「ミヤザキツトムさん」と返答。

 

本人は俳優の「山崎努」の名前を言おうとしたらしいのですが、言い間違えて「ミヤザキツトムさん」と答えてしまったそうです。

 

このとき、MCのとんねるずが、「山崎努さんの間違いだろ?間違えるなよ!」とツッコんでいましたが、当の中森明菜は「何でだろう?私知らないけど今ずっとミヤザキミヤザキって…」と不思議がり、そこで番組は終了。

 

そして、この放送から2か月後の8月11日、「連続幼女誘拐事件」の犯人として「宮崎勤を再逮捕」のニュースが流れたのです。

 

中森明菜が、「連続幼女誘拐事件の犯人の名前を当てた!」というのは随分とこじつけになりますが、このことは都市伝説として、現在も語り尽くされています。

 

結局、宮崎勤元死刑囚は、被害者遺族に謝罪のないまま、2008年に死刑執行。

 

死刑執行の様子として語られている宮崎勤元死刑囚の最期の言葉は、「あのビデオまだ途中だったのに」。

 

結局、初公判から一審判決までおよそ7年かかっているのは、半分近くが宮崎勤元死刑囚の精神鑑定に費やされたからです。

 

1990年3月から始まった東京地裁の裁判での初公判で、事実関係を大筋で認めるも、「覚めない夢を見ているような気がする」「ねずみ人間が出てきておっかなかった」などと取り乱すことなくたんたんと語り、殺意については否認。

 

弁護側は被告人の犯行の異常さを強調して、被告の精神鑑定を求めたのです。

 

1年3か月かけて行われた第一次精神鑑定では、「刑事責任能力あり」と結論付けされたのですが、弁護側は再鑑定を請求。

 

再鑑定は2年近くに及んだ末、結論は「多重人格」と「精神分裂病」の2つに割れてしまう。

 

結局、3つの精神鑑定 裁判所がこれらをどう判断するのかが、判決の焦点になったのです。

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